SSブログ
テレビ番組 ブログトップ

戦争は「男の本能」かも [テレビ番組]

大変ものを見てしまった。番組を見てそんな感じがして、少し考えてみた。
そうしたら、自分が長年考え続けてきたことに、また一つの答えが出たように思った。
それは「なぜ人類は戦争をやめられないのか」。そしてその答えは、「男が支配者であるから」。
これはより正確に言うなら、「いまだに軍事力を持つ勢力(国家に限らずテロ組織とかも含む)が、男性的本能を持ったリーダーに率いられているから」。つまり国のリーダー個人が男性か女性かではなく、国家意志を決定する機関が「男性的本能」から脱却できない限り、戦争は無くならないだろうということである。

今日見た番組名は「ゴリラ先生ルワンダの森を行く」。
これはNHKの番組のアンコール放送で、京大の山極教授というゴリラの研究者が、26年ぶりにルワンダのゴリラに会いに行くというもので、その理由がゴリラの群に異変が起きているというもの。
ルワンダとコンゴの国境の火山地帯に棲息するマウンテン・ゴリラは、1頭の成熟したオスと複数のメスとその子供で形成されていたのだが、最近複数の成熟したオスを含む群れができているとのこと。そしてその理由は、ルワンダやコンゴの戦争で棲息地域が狭くなったゴリラたちが、子供を守るために複数の成熟したオスを含む群れを形成しているためで、これは最近起こった大きな変化だということである。
具体的に写真で取られた記録では、二つの群れが衝突した時、オス達が最前線に出て「戦線」を張り、群れのボスがメスと子供達の集団に付いて、相手の群れの若いオスが子供を殺してその母親を自分のものにしようとするのを防いでいたとのこと。そしてメスはそのように子供を守ってくれる群れに集まってくるとのことだ。
これは大変なことだと思う。というのはゴリラの群れのこのような変化は、人類が社会を形成してきた進化を再現しているのではないかと思うから。

人類もずっと昔は、このマウンテン・ゴリラのように食べ物を求めて移動して生活していて、定着して農耕をするようになったのはこの1万年ほどのことだという。ということはその前の数百万年間は、基本的にこのゴリラと同じ食生活だったはずだ。狩猟採集生活では、特定の人数を養うにはそれなりの広さの自然が必要なので、「群れ」が大きくなるのは不都合なはず。しかし人類は、複数の家族が集団で行動する様式を、農耕開始以前からしていたようである。ではそれはなぜか。何か得なことがないとそういうことはしないはず。私は農耕以前の人類史にあまり詳しくないのだが、少なくともこのゴリラの変化を見て分かる明確な点は、屈強な「オス」が集まるメッリトとして農耕や建築が始まるより遙か以前に何かあるとすれば、それは「戦争」しかないだろうということ。
つまり「男」というものは元々「群れの戦士」として作られ、進化してきたのではないかということである。
そう考えるといろいろ納得がいく。まず、子孫を残すことに男は必要最小限のことしかしない。妊娠し出産し授乳するのは女の役目で、社会がいかに発展しようと人工的な手段を使わない限り、これらは男にはできない。受精や授乳が人工的にできるようになったのはつい最近なので、人類はずっと長い間、子孫継続の仕事の大部分、子供が生まれてある程度大きくなるまでの数年間は、それはずっと女性の仕事だった。そんな女性に、急に起こる危機的状況に対処させるわけにはいかないので、「戦う」のはいつでも身軽な男の仕事になる。
そんなこんなで数百万年。それだけ長くなれば男女の違いが先天的になるのは当然で、それは身体的なものだけではなく、精神に及んでも不思議はない。いわゆる「男の本能」である。男女差にはいろいろあるが、決定的な違いが妊娠と戦闘にある以上、「戦う本能」が男に備わっても不思議はない。

そもそも、女性が常に平和的で戦争を嫌うとは限らないが、損得抜きで戦ってしまうのは常に男だと思う。女性は常に功利的で、これはよく言えば行動にはメリットとデメリットを考え、損なことはしないという合理的な本能とも言える。したがって戦争という大きな犠牲を伴う行為には、よほどの見返りがなければ賛成しないと言ってもいいだろ。
ところが、男はそうではないようだ。歴史上いくつもの戦争の開戦理由を見てみると、「それで戦争にするのか」と疑問に思うことがいくつもある。その際たるものがまだ完全には終わっていないイラク戦争である。2003年の米軍のイラク侵攻を私はテレビでリアルタイムで見ていたが、勝ち負けには関心はなかった。いざ始まれば米軍の圧勝は目に見えていたからである。理由は制空権。前回の湾岸戦争以来これを喪失していたイラク軍には、現代戦ではどうやっても勝ち目はない。
それで私の関心は「米国はどうしてこの戦争を始めたか」だった。大量破壊兵器がどうこうは問題ではない。実際にそれをどこかの国に使ったのならともかく、隠し持っているというだけでは理由として決定的ではないからである。すでに戦争中ならそれを理由に先制攻撃をすることもあるが、それが開戦理由になるのはどうしても無理。
したがって理由があるとすれば、「イラクが国連決議を無視している状態にあるのにこれ以上何もしなければ、イラクからなめられる」というものしか思いつかない。しかしこれはまさに「男の理屈」である。心情としては分かるが、それが戦争を開始する理由とは、とうてい納得できるものではない。勝てる勝てないとは別の問題である。そこでもう一つ理由が思いつく。「目の前に勝てる戦争があるのにやらないのでは、腰抜けと思われる」。しかしこれもまたむちゃくちゃな理由である。これではごろつきの喧嘩と変わりがない。しかしそれが「男の本能」だと言われると分かるような気がする。

だから結論として、「男の本能で戦争を始めるようなリーダーは、原始時代ならともかく、現代では支持は得られない」ということだ。共和党が負けてオバマが大統領になるのも当然である。
現代ではどこの国でも女性の政治参加が進み、議員にも多数の女性がいる。これらの人々が「男の本能」に引きずられることなく、戦争をする場合に合理的な理由の説明を政府や軍に求めるなら、どの国も簡単には戦争できないだろう。そうなればゼロにはならないまでも、戦争は少なくなるに違いない。戦争はまともな国家ではなく、議会を持たず「男の本能」に動かされるような国かテロ組織ぐらいしかしなくなる。もちろん、そういう組織や勢力は後を絶たないだろうから、人類から戦争なくすには、「男の本能」に抵抗するだけではまだまだ足りないだろうが。

他方、「それでは戦争がなくなれば、男は必要なくなるのか」と問われれば、それはそうではないと言いたい。
上でも行ったように、「男の本能」に意味があるのは原始では戦争くらいだったが、今はそうではないからである。
すでに社会的システムを獲得した人類では、損得抜きで何かのために身を捧げる人が必要な場面は戦争以外にもある。もちろん、そんな「損な役回り」をする人が必要ない方がいいのだが、物事万事そううまく行くものではない。そんな時に「よし俺が」と損得抜きで前に出る人が必要な場面はまだまだあるだろう。災害時とか、何か大きな事業とかで。
しかしながら、最近はそういう人も少なくなっているようである。それは人類が「男の本能」を失っていく進歩というものだろうか、それとも「進歩」の名の下に大切な何かを失っていくことなのだろうか。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

「天地人」3.29の回 [テレビ番組]

兼続が武田方に行ったら一発で相手に話の分かる高坂弾正が出てきて、1回で済んでしまってこれは楽すぎると思ったら、やはりそれだけでは済まなかったようで、次は金で調略とは、ますます名作ゲーム「戦国大名」になってきた。
その前に信長に真田の女が「つまらない対面にこだわらない方が勝つ」と言っているのはいい伏線。「先に死んだ者に申し訳が立たない」などと言って戦争を継続した旧軍の例など、窮地に陥ってもつまらない意地にこだわる人が多いのは日本人の特徴か。「恥の文化」も時には困ったものだ。
それに組織としての「発想の転換」は難しいなど、戦国時代を超えて普遍的な教訓もあり、ここのところは実に興味深い。
それにしても同盟のために信濃はいいとして、上野の領地を明け渡すと言っても、そういうところは結局は北条との係争地になって、落ち目の武田としても困るのではないかと思ったが、実際にはどうだったのだろう。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

アニメ「FLAG」に関連して-ウォーゲームの意味 [テレビ番組]

戦争の実体や真実というものを無関係の人に伝えるのは難しい。いや経験者さえ、その巨大な事件の一部でしかないので、全体や真実がつかめない事がある。
映像報道はその伝達方法の有力手段だが、ただの写真では限界がある。アニメ「FLAG」は、白州冴子というカメラマンを主人公にしながら、彼女は厳密な意味での主人公ではない。何度も登場する元クフラの女性に代表される当事国の一般庶民達こそが主人公で、白州も赤城も彼らの記録者でしかない。つまり彼らの映像だけでは不十分で、関わった人たち、赤城の情報提供者だった癖のありそうな現地の男を含めた人たちとの関わりこそが大事で、それらを抜きにしては彼らの「願い」とそれを伝えようとした白州たちの想いは分からない。映像としては戦闘シーンが「売れる」だろうが、白州が「撮りたい」と思ったのは、それではない。フラッグ奪回戦を我が身の危険も忘れて撮ったのは戦闘シーンの迫力のためではなく、戦っている彼らを白州が知っていて「好きになった」彼らの戦いを記録しなければならないと思ったから。つまり彼女が撮りたかったのは戦い自体ではなく、そこで戦う人間だった。それであれば、紛争が終結した後でも、そこで暮らす人々を撮る意味がある。だから彼女にはいくらでも撮るものがあった。

実際の戦場カメラマン達にそこまでの意識はあるだろうか。たいていは凄い戦闘シーンを撮りたいのではないだろうか。しかし戦争では戦うのは結局人間であり、それに巻き込まれるのも人間である。ならばそれらこそが伝えるべきものであり、それによって戦争の真実が伝えられるだろう。人間を抜きにしては戦争を理解しようとしてもダメだし、戦争を伝えようとしても意味がない。

故に、ウォーゲームも当事者の人間としての苦悩や恐怖や過ちを体験できることにこそ意味がある。よく言われる「戦場のジレンマ」などである。ただ漫然とプレーして楽に勝てるゲームでは意味がない。私がただの兵器の撃ち合いゲームに興味がないのもそのせいだろう。そしていつまでたっても必ずしもうまいプレーができない「へぼゲーマー」でも、これを続けている理由だろう。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ゲーム

アニメ「FLAG」 [テレビ番組]

ゆうべ放送のアニメの最終回を見た。
「FLAG」は予想以上のできだった。これは万人に勧められる。

12話「フラッグ奪回」までで話は事実上終わり、後は後日談だと思って13話を見たが、冒頭が白州の取材中に何かアクシデントが起こった事を示す映像。てっきり彼女が狙撃されたのかと思ったが、その後が、彼女が国連軍に拘束されて5日後に帰ってきてから日本に帰る前の日までの事。そして赤城が、自分たちが紛争地域で取材する意味を確認する事。それがこの作品の主題だった。
シーダックも二足歩行兵器もそれに至る過程にすぎなかった。彼らは秘密部隊でありながら心のない兵器ではなく、まぎれもなく心を持った人間であり、そのことを白州は再確認して涙し、その思いを持って「私にはまだ撮りたいものがたくさんある」としながら、父親の誕生日のため一時帰国しようとする。すでに他のジャーナリストもあらかた帰国したが、赤城はフラッグの争奪戦と国連本部占拠事件がうやむやにされたことで、まだ何かあると感じて残る事にしていた。彼の予感が正しかったのか、それとも偶然か?白州が狙撃されたのなら、彼女の取材データを没収したのにシーダック隊長が密かに同じものを白州に送ったのがばれて、口封じされたとも疑われるが、この結末ではその辺りは何とも言えない。
大事なのは、白州の結末にかかわらず、彼女は「撮りたいもの」を見つけたこと。それは世界中にある紛争にもかかわらず、そこには必ず平和を願う心を持った人々がいる事。それを赤城は「1000万のクフラ」とした。「クフラ」とはこの物語の舞台になった国ウディアーナで「生きた女神」として民間の崇拝を集める少女の事だが、赤城は成長してその任を解かれた元クフラの女性と関わる事により、彼女のように自分の国の平和を願う存在は世界中に1000万人はいると確信し、彼らが平和を求める「フラッグ」を一斉に掲げるなら、未来は明るいのではないかと期待する。そのためにも、彼は白州の残した取材記録を公表する。それがこのアニメという事だ。

エンディングでは毎回最後に出てきた白州のカメラが、今までは横向きだったのが、最終回は前に回って、レンズにひびが入り、左側が破壊されているのを映す。白州の最期のシーンはアニメでは前述の突然映像が切れるところだけだが、このカメラが彼女がどうなったかを示している。たった1ヶ月の取材。しかし、それで彼女が残したものは、何よりも雄弁に語る。平和の回復のために命がけで戦った人たち、平和の回復を妨害しようとした人たち、それら一切を隠そうとした人たちのことを。それらを公表する事が、「1000万のクフラ」の願いを繋ぐ事になる。その結果がどうなるか。それは実世界で我々が見届ける事になるだろう。

私がこんなブログを書いているのも、実は同じ思いからかもしれない。

蛇足
NKHのBSで放送された「映画版」はこのアニメの短縮版らしい。ラストが全く同じなのでテーマは外していないと思うが、白州がシーダック隊からのメッセージを受け取って涙するシーンは、一見本筋とは無関係で無駄と思える回も見ていないと彼女の思いを理解する事はできないだろう。映画版だけの人は、是非アニメ版も見てほしい。結末を知っていても。いや、それならなおさら。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アニメ

「天地人」3.22の回 [テレビ番組]

時間が無くて大河ドラマの録画していた最新回を今日やっと見たが、なかなか興味深い回だった。

上杉の「御館の乱」で春日山に籠もる景勝方は、兵糧の残りが不足してきて危うい上、景虎方が北条の援軍を引き込むことに決し、北条に呼応して武田も攻めて来る形勢という窮地に。ここで主人公兼続は春日山の裏手にあたる地の桑取というところに行き、そこの衆に味方を頼み、兵糧も得るという話だった。

この話では、味方を得る事に失敗した勢力と成功した勢力が出てくる。成功したのはもちろん景勝方だが、失敗したのは武田と景虎方。景虎方は桑取勢に味方を促す動きでは先んじていたが、金を渡すだけで済むと思っていた。結局は彼らは敵側につき、寸前まで成功していた兵糧攻めも失敗した。
もっと深刻なのは武田。北条の誘いに乗って越後へ進撃しようとする勝頼を、高坂弾正は止める。長篠で負けた後、織田の脅威が迫っている今、上杉とは戦うのでなく同盟すべきであると。これは歴史を知っている人、そして少しマルチプレーヤー・ゲームをした事のある人には納得できることだろう。
例えば、現在盤上に織田、上杉、武田、北条というプレーヤーがいるとして、今のところトップを走っているのは織田。そこへ上杉でイベントで内乱が起こった。ここでそれに乗じて上杉を攻めるのなら、それによる得失を考えなければならない。要は上杉の一部を獲得したくらいで(北条とともに攻めるので全部は取れない)織田に対抗できるようになるのか、上杉を攻めずに恩を売って後にともに織田に対抗するのかである。しかもこの場合番組中で、勝頼は織田に対抗する力を付けるためではなく、単に長年の遺恨を晴らすには絶好の機会というだけで出陣しようとしている。これでは高坂が諫止するのも当然。結局意見が容れられなかった高坂が落胆する絵は、「こうして武田は滅びました。でも私の責任ではありません」と彼が言っているように見えた。

窮地に陥った時、自分と相手ばかりを見るのでなく、もっと広く周りを見渡す事が必要だ、とこの回は言っている。この回では兼続は桑取衆を味方にしただけだったが、「これからが大変」と言って、次回は武田の方に働きかけをする事になる。確かに今回の成果だけでは米と若干の兵力が増えただけで、状況を覆すには足りないのだ。同様の外向的手段を使う先を考えると、次は武田というところに行き着く。
結局ところ数の勝負なので、味方は多い方がいいし、逆に敵の味方は少ない方がいい。この場合、武田を味方にすれば一気に逆転に近くなるし、できなくても中立にできれば少なくとも絶望的状況からは逃れられる。次の目標とするのはいい目の付け所だ。

武田は長篠で負けた後一気に凋落し滅んだような印象があるが、実はこの時期まだ他国に攻め入るために2万の軍勢を動かす事ができたというのが再認識。当然織田への備えも残しているはずだから、この2万でも全軍ではない。つまり長篠の負けはたまたま1回の戦闘結果が悪かっただけのようなもので、それだけでは滅亡は決定していなかったのだ。年表を見ると、長篠が1575年、武田が滅んだのが1582年で、その間7年もある。その間にできるプレーはいろいろあったはずなのに。例えば、もしこの上杉家の内乱の後に、武田・上杉・北条の3国同盟ができていれば、織田にとっては強力な東の壁になり、その後の歴史は変わっていたかもしれない。東日本では徳川などほとんど出番がかなったかも。
結局武田は織田に滅ぼされ、北条は秀吉に滅ぼされた。これに対し上杉は転封はされたものの最期まで生き残る。このあたりが歴史の境目だった事になるわけで、実に興味深い。

それにしても、負けてくるとプレーが裏目裏目に出るというのは良くある事。武田の場合それだったのだろう。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

FLAG [テレビ番組]

さて本日はアニメの話です。
MX-TVで正月から「FLAG」というのをやっています。これを知ったのすでに4話まで終わったあとでした。
私は4半期ごとにアニメ誌を買って新作をチェックしているのですが、これが昨年の12月号に新作として載らなかったのは、すでにAT-Xで放送されていたからなようです。ほとんど話題になっていなかったようで、私は全く知りませんでした。
それで第5話からやっと見られたのですが、戦闘シーンのクォリティが半端じゃないです。原作が「ボトムズ」の高橋氏とのこと。流石というところでしょうか。
ちなみにこの作品は劇場版?と言えるものが先日NHK衛星で放送されましたね。1時間45分なので、ダイジェスト的なものでしょうが、戦闘シーンは省いていないでしょう。

話の舞台は中央アジアのどこか。というより、チベットの某有名寺院としか見えない建物が出てきますので、あの辺りを念頭に置いているようです。
内戦が続いている国に飛び込んだ女性カメラマンが主人公で、政府反政府両軍の和解の鍵を握る「FLAG」というものを探すという話です。
最初の4話を見ていなかったので、この時点で話の本筋は分からなかったのですが、先頃DVDを購入して1話から見ました。結果、状況は上に話した事がほんどで、二足歩行戦闘機械「HAVWC」の紹介と、主人公が国連軍の特殊部隊の専属報道員になるまでのくだりが述べられているだけでした。

ということで最初にテレビ放送で見た回は、「HAVWC」2機が、奪われた「FLAG」があるという反政府軍の拠点を攻撃するシーン。これが実に良くできていました。この回は突入する1機を支援する方の1機が、敵の拠点の火点3カ所を潰すまででしたが、射弾が目標に飛んでいく様など、私が富士の演習場で何度か見た自衛隊の実弾射撃演習と実によく似ていました。それと射撃する前に無人偵察機で敵火点の正確な位置確認をして射撃の精度を上げているという芸の細かさ。射撃の正確さをHAVIC搭乗員の「腕」のせいにしていないんです。
で、シーンそのものはどちらかといえば地味なんですが、それだけに射弾が命中するかしないかでリアルな緊張のシーンが生まれていました。

そして昨日の最新回は、地元武装民兵に占拠された国連部隊本部になっているホテルへの奇襲救出作戦の回でしたが、やはり良かった。なかなかハラハラドキドキさせてくれる回でした。はじめて敵方の二足歩行兵器と本格的な戦闘になった回でもありました。
しかしれそれで分かったのは、結局このアニメの「二足歩行兵器」は名前通り「武器運び」だけで、手足があってもガンダム的戦闘はしないのです。それはそれでリアルですが、そうなるとそもそも手足は要らないのではないか、という話にならないかと思います。
それと今回ので際だったのが、敵の歩兵を殺しても全てモニター越しの可視光ではない映像で、まさにゲーム感覚。これはずっとそうでした。人を車載機関砲で掃射すれば阿鼻叫喚の地獄になるはずですが、そんな絵は一切無し。戦闘後の「残骸」のシーンもなし。これでは結局リアルではないのでは?中途半端な感があります。しかし、あまりそこら辺をリアルにすると規制がかかって全年齢対象にならないから仕方ないのでしょうか。せっかく良く作ってあるのに、惜しい気がします。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アニメ
テレビ番組 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。