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ウォーゲームにおける「モラル」または部隊練度について [私的戦争論]

「清盛軍記」についてのこまいふさんとのやりとりで、指揮官に関する戦闘中の感情の問題の話をしたが、そういうのは昔の戦争だけではなく、近代戦でもあることなのに、あまりゲームで取り上げられていないなあ、と思った。

たとえば一般に陸戦ゲームでは、攻撃側退却や防御側退却をCRTで一律に決めているが、同じ戦力比ならいつも同じ結果が同じ確率で出る、とは限らないのが、実際の戦闘で、それは部隊や指揮官の士気や練度の違いで起こるものである。より具体的には指揮官の決断で。

たとえば退却という事象は、近代戦なら指揮官がそう決心したから起こるもので、民兵や義勇兵ならともかく、普通ウォーゲームの対象となる主要国の正規の軍隊で、指揮官が命令してないのに部隊が勝手に退却することはあり得ない。
それではそういう主要国の軍隊では、どういう状況で指揮官が退却の決心をするかは一律だろうか。
戦記物などを読むと、とてもそうとは思えない。すぐに退却したがる「退却将軍」のような人もいれば、「どうしてそんなにがんばるの」と言いたくなるようなガンとして下がらない人もいる。その違いは、とてもサイコロ一つで決められるようなバリエーションの少なさではないように思える。

そのあたりが簡単にルール化できるのが、よくユニットの戦闘力と移動力の間に来る数字で、練度とかアクションレートとか呼ばれるものである。
これがあると、額面戦力は同じでも、戦闘結果に格段の差が出せるのである。
たとえばGamersのOCSでは、これはARと呼ばれるもので、0から5まである。大きい方がよい。
戦闘のときはまずこの差で奇襲が成立するか決め、戦闘結果を出す時もこの差で修正される。つまり、奇襲が成功していい目が出ると、額面戦力からは想像もできなかった結果が出ることがある。
そのため、このゲームは戦闘結果の振り幅が大きすぎると批判されることもあるようだが、その「計算できない」部分こそ、モラルとか練度、あるいは軍隊の人間的な部分なのだと思う。そこを外しては、ゲームはあまりに数字重視のものになり、本当は人間が闘っているんだ、ということを忘れてしまうのではないだろうか。

ただ、部隊の練度などというものは、ある一定の基準で計量できるものではないので、ゲームデザイン上は決めるのが難しいだろう。結局は、史実の結果を見て後付けすることになるし、度が過ぎると「キャラクターゲーム化」する恐れもある。
それでも私は、戦争のそういう面まで目を向けたゲームがほしい、と思う者である。
だからOCSがしたいと思うわけだし、シモニッチのゲーム、「アルデンヌ44」や「ノルマンディー44」のシステムもそのあたりが出ていて面白いと思う。
たとえ戦争が、無人機や遠隔誘導兵器のような兵器が主流になったとしても、最後の決断は人間が下すものであることは変わらないだろう。


PGGシステム考 [私的戦争論]

先に南方軍集団のキエフ・シナリオの記事で、PGGシステムの敵ZOCから移動で離脱できないことを「古いシステム」とこき下ろしたが、考えてみると、1941年の独ソ戦をシミュレートするには、簡単でいいルールかもしれないと思いなおした。
ただそう考えるとドイツ軍にも適用されるのがおかしいが、基本的なZOCのルールなので、国で別にするのはおかしくなると思ったのだろう。あるいは基本的に攻撃側のドイツ軍は、どうせ敵を攻撃するのだから大きな問題はないと思ったのかもしれない。ソ連軍の接敵作戦も、効果のなかった小規模な反撃と考えれば、実際に攻撃はなくてもある程度それが再現されていてよいと思ったのかもしれない。

私がそのように考え直したのには、一つの理由がある。それはPGGという独ソ戦の一局面に限られず、もっと大きな意味合いがある。少し長くなるが、以下、お付き合いいただけると幸いである。

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田母神論文余波 [私的戦争論]

新聞広告を見ると、あちこちで田母神前空幕長が大人気。まるで日本の歪んだ歴史認識・歴史教育を正す救世主のようだ。
しかしこれら「売らんかな」の宣伝に惑わされてはならない。

第一に、彼のような主張はこれが初めてではなく、多くの人が何度もしてきていること。そして彼がその職責をわきまえず、そのような主張を公にしたことで、いろいろな方面に迷惑をかけたのは事実であること、この二点は忘れられてはならない。

今回の場合問題なのは侵略戦争かどうかではない。
そもそも「侵略戦争」の定義はそれ自体で本が書けるほどのテーマである。例えばかのマッカーサーが議会証言の中で日本の戦争に防衛的性質があったと述べたことが最近明らかになった。
戦争は間違いないにしても、それがどういう性質のものかは戦争ごとに違ってくる。少なくとも古代はともかく、近代において戦争をしかける側がそれが侵略戦争であることを公言して行われたことはまずない。ドイツの対ソ戦しかり、朝鮮戦争しかりである。
したがって論文中で侵略云々が言われているにしても、それがどういう定義で使われているかまず吟味されなければならない。たぶん「先の戦争は日本の侵略と言われているが」という調子なのだろうが、その場合、侵略の定義は相手方に委ねてしまっていることになる。しかしそれでは検討に足る論文にはならない。

したがって防衛省は、空幕長を処分するにあたり、その論文の内容について、侵略の定義から始めて吟味しなければならず、そのためには彼を厳しく査問して、論文に込められた意義、それを公にした意味まで問いたださないといけなかったはず。そうすれば論文の問題点も空幕長としての行動としての是非も明らかになった。しかしそれはされず、せっかくの国会の場でもされなかった。故に今、彼は野に下って言いたい放題で、誰もそれについて問いただすことはできない。それこそ言論統制になるから。しかし彼がまだ自衛官のうちならそれができた。

拙速に事を処置した防衛省幹部の責任は重い。彼の主張の当否よりも、それ自体が独り歩きして、世に広まるのを誰も止められなくなったのだから。
すでに批判されているように、何を主張するのも自由としても、それをする時の社会的立場というものは考慮されなければならないのは、偉くなればなるほど当然のこと。まさか空幕長になれば何でも言えると思っていたわけではあるまいが、この場合、逆に空幕長だからこそ世間に注目されると考えた可能性がある。しかしそれはまさに「人の迷惑顧みず」で責任ある立場の人のすることではない。

ただ、一方、それがゆえに三自衛隊の長の一人という、自衛隊ではほとんど至高の存在である人が、査問も審査も受けずに更迭されるというのは妥当なのだろうか。いかに組織内部の処置とは言え、国家公務員たる自衛官に更迭という処分をするのには一定の規則とそれにもとづく手続きがある。今回の場合、政府・自民党の足を引っ張る恐れ、とりわけ近く実施されると予測されていた国政選挙に対する悪影響を恐れて、野党の追及を受ける前に素早く事を処置したのは明らかである。

しかし甘かった。確実に処置しようとするなら確実に口を封じなければならないが、法治国家においてそんなことはできない。言論の自由が保証されているということ以前に「死人に口なし」を決め込むようなどこかのテロ国家とは違うのである。
それで田母神氏は今も主張し続け、彼が世間の耳目を集めればそれだけ政府・自民党の株は下がるのである。次の選挙ではどこかから担ぎ出され、立候補するかもしれない。そうすればそこでもさまざまな批判を繰り返し、マスコミはそれを取り上げ、その分自民党の票は減るだろう。それでその選挙区で彼が当選し、自民候補が落ちたらそれこそ自民党にとって悪夢である。

政府・自民党ができる今からでも間に合うことは、ちゃんとした学者に田母神論文を批判させ、彼の主張の問題点を明らかにすることにより、これ以上彼がマスコミに持ち上げられることを阻止することだが、さて今の自民の先生方に、そのような論陣を張らせるだけの見識と人脈をお持ちの方がいるだろうか。ないとすれば、実はそれこそが問題なのである。


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戦略爆撃・戦略空軍思想の終焉 [私的戦争論]

(「ゲルニカからたった3マイル」を書いて考えたこと)

今も原爆や大都市爆撃を擁護しようとする者がいるとすれば、それは戦略空軍という組織を守ろうとしている人々としか思えない。

冷戦が過ぎ去り、相互確証破壊戦略が消え、ニューヨークに大規模テロが仕掛けられる時代では、もはや核兵器を揃えても国の安全は守れない。しかしそれ以前に、第二次大戦から冷戦時代にいたるまで、戦略空軍によって勝利が得られ、平和が維持されたという事は実は幻想であると証明されたら、今ある爆撃機もミサイルもとたんに存在根拠を失い、組織の権威は地に落ちる。それはこれまで費やしてきた莫大な費用が無駄になるという事も意味し、納税者のおおいな怒りを買う事になるだろう。彼らが怖れるのがまさにそれである。それだから、「幻想」は事実として維持されなければならない。しかし今や、それは大いに揺らいでいる。

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