SSブログ

戦略爆撃・戦略空軍思想の終焉 [私的戦争論]

(「ゲルニカからたった3マイル」を書いて考えたこと)

今も原爆や大都市爆撃を擁護しようとする者がいるとすれば、それは戦略空軍という組織を守ろうとしている人々としか思えない。

冷戦が過ぎ去り、相互確証破壊戦略が消え、ニューヨークに大規模テロが仕掛けられる時代では、もはや核兵器を揃えても国の安全は守れない。しかしそれ以前に、第二次大戦から冷戦時代にいたるまで、戦略空軍によって勝利が得られ、平和が維持されたという事は実は幻想であると証明されたら、今ある爆撃機もミサイルもとたんに存在根拠を失い、組織の権威は地に落ちる。それはこれまで費やしてきた莫大な費用が無駄になるという事も意味し、納税者のおおいな怒りを買う事になるだろう。彼らが怖れるのがまさにそれである。それだから、「幻想」は事実として維持されなければならない。しかし今や、それは大いに揺らいでいる。

1.「B-29による日本に対する勝利」という幻想

 B-17は欧州で戦略爆撃の主体となったが、もともとはそのために作られたものではなく、特に太平洋では艦船攻撃などもしていて、つまりは戦術的な使われ方もかなりした。しかしB-29は戦略爆撃を行う事を目的に作られ、実際にほとんどそれだけに使われた。つまり戦略空軍はこの爆撃機の配備から始まったと言える。現に、欧州で活躍した第8空軍は戦略空軍とは言い難いが、アジア・太平洋で活躍した第20・21爆撃集団は純然たる戦略空軍として使用された。そしてその目標が日本であった以上、まさに日本との戦争をこの空軍の力で終わらせる事が、戦後の空軍独立と戦略空軍創設に繋がる事になる。

 故に、陸軍航空隊、特に爆撃隊の人々は、日本をそのように屈服させる事を目的とし、日本の7大都市の空襲を計画し、実行した。

 しかし誤算が生じた。それだけでは日本は降伏しなかったのだ。結局彼らはその後、軍事上あまり重要でない中小都市の爆撃を終戦直前まで続ける事になった。しかしこれは、「敵都市の破壊が勝利に繋がる」という誤ったテーゼに基づいた無駄な愚行だった。戦略空軍の実現のためにはそれが証明される事が不可欠だったが、結果は失敗。しかし間際になった原爆の出現が、かろうじて彼らを助けた。当初、通常爆弾と焼夷弾で達成できると思った目的は、新型爆弾というセンセーショナルなイベントのおかげで、戦略空軍の有用性を示せたのだ。

 しかし、本当に原爆は軍事的に有効だったのか。実は、米空軍には、原爆投下以前にすべき事があったのだ。それは日本国内の交通網の徹底的な破壊である。戦後においても道路網が貧弱だったほどの日本では、陸上交通は主として鉄道に依存していたはず。しかしこの破壊のためにB-29が使われたという事は聞かない。それは鉄道ですら、B-29には「小さすぎる目標」だったからだろう。艦載機が汽車を攻撃する映像はあるので、海軍はそれをやっていた。しかしB-29が交通網破壊にしたのは、機雷の空中投下だけである。

 いかなる近代国家も、その経済の運営のためには陸上交通、特に鉄道が重要なのは、米国にも分かっていたはず。なにせこれより100年前の南北戦争で、「海への進撃」をしたシャーマン将軍の部隊はすでにそれをしていたのだから。しかし日本のその破壊を海軍にだけ任せたのは不可解。それは陸軍爆撃機の主力となったB-29の特性によるものだろう。

 B-29がそれまでの爆撃機よりずば抜けている点は、「より遠く、高く、速く、多くの爆弾を」である。マリアナから数千キロ彼方の日本本土を、1万メートルの高空から、敵戦闘機と同等かそれ以上の速度で飛びながら、大量の爆弾を降らせた。しかし当たったか。これが問題だった。爆撃精度はノルデン照準器で実現できるはずだったが、実際にやってみると1万メートル上空からでは大きな工場に当てるのでさえ至難だった。低空爆撃をすればそれは解決するが、敵地上空を低空で護衛戦闘機もなしに飛行するは、いかにB-29でも危険である。高価な機体をそんな使い方はできない。昼間の工場への低空攻撃ができないのなら、より難しい鉄道はさらなりである。もし日本本土近くにB-25あたりを発進させられる基地があればやらせただろうが、沖縄が陥落するまでそれは無理。結局最後まで、日本を攻撃できる陸軍機はB-29しかなかった。つまり、米側には「4番打者」しかいなかったので、鉄道攻撃のような「細かい仕事」はできず、都市爆撃という「おおざっぱな仕事」を」をするしかなかった。

 しかしそれはやりたくない仕事をせず、やりたい仕事で目的を達せられるとごまかしたに過ぎない。B-29だってやり用によっては鉄道攻撃ができたはず。もし国内鉄道網がずたずたになったら、軍隊は徒歩で移動せざるを得ず、いかに陸軍が威勢がよくても、本土決戦などできなくなったし、本土防空にもかなりの支障を来しただろうし、学童疎開もできなかっただろう。しかし史実を見る限り、かなり最後まで、鉄道は生きていたので、現に爆撃直後の広島にも、汽車が出たり入ったりしているのだ。実に皮肉な事に、全てを破壊できるはずの原爆でも、地を這うレールを破壊する事はできなかったらしい。鉄道が広島の中心とは離れたところを走っていた事もあるが。

 つまり、日本の戦争継続に決定的な打撃となったはずの鉄道攻撃に、自慢の「戦略空軍」はその使用手段の大きさ故に、役に立たなかったので、都市爆撃を最後まで続けるしかなかったのである。もし原爆の完成が1ヶ月遅れていたら、B-29は戦争終結に決定的な役割を果たした兵器とは見なされず、単に「ご苦労さん」で終わっていただろう。

2.「核による平和」という幻想

 冷戦体制は米ソの核戦力の均衡により軍事バランスが保たれ、結果として平和が維持された。その立て役者は核ミサイルと戦略爆撃機を持つ空軍だった。それは事実。しかし本当にこの期間「平和が保たれた」と言えるのか。

 冷戦は文字通り、戦火を交えない戦争であり、それは表面は平和に見えるが、水面下では破壊や殺人が行われていた。それは戦争と変わりがない。「熱い戦争」ほど激しくないために目立たないが、例えばソ連でスパイ容疑をかけられて投獄され、ついには人生を失った人がどれだけいたろうか。そして双方軍事力を維持するためにどれほどの資金や資源が投入されたか。それらが例えば貧困層の生活改善や教育に使われたら、どれほどの有為の人材が育ち、国や社会に貢献できたか。

 実際、軍事に投入された資金や資源は、次々と開発され生産される兵器となり、まったく無駄に消費されていっただけである。使われないまま廃棄された兵器は何も生まない。民間に払い下げられて建設機械になったり、農業用トラクターになったりはしないのである。技術は転用され、有用だった。GPSなどはいい例である。しかし兵器そのものは、せっかく綺麗に作っても演習で使った程度で、素のくず鉄に逆戻り。それらを作るのに費やされた物は全くの無駄になったのである。

 それで平和が維持されたら実際に戦争するより安い物だ、とは言えるのだが、はっきり言って、冷戦は平和ではない。多大のコストの浪費によって維持された「戦争をしない」状態にすぎない。

 また冷戦は大国間の戦争を押さえはしたが、そのツケは途上国に流れた。代理戦争という地域戦争への米ソの介入・影響がなければ、同じ戦争でももっと規模が小さく、ために損害の少ない戦争もあったはず。大国の国民の命が助かった分、途上国で無駄な血が流れたのである。決して誇れた「平和」ではなかったのである。

3.「SDIによる冷戦の勝利」という幻想

 今でも旧ソ連の崩壊は、レーガン大統領のSDI構想に軍事競争で着いていけなくなったソ連が冷戦で負けたからとされているが、本当にそうだろうか。それこそ、戦略空軍信奉者の詭弁ではないだろうか。

 SDI構想、すなわち先進技術による対弾道ミサイル防衛構想が、ソ連に大きな打撃になったのは確かであろうが、それは10年以上経った今でも実現していない。実現しつつあるのは、あの時構想された物より遙かに簡単な物に過ぎない。つまりはあの構想のほとんどは絵に描いた餅で、ソ連側もそれはある程度予想できたはず。そもそも、できてもいない敵の防御兵器に対して、その構想を示されただけで「負けました」と頭を下げるほど旧ソ連の軍部が潔いはずがない。

 つまりはソ連の冷戦の敗戦は、対外的な事、米側が何をしたかではなく、自分たちの事情によったのである。それはソ連崩壊後噴出した数々の問題で明らかになった。

 ソ連崩壊後に起こったのは急激な資本主義経済への移行で、それはそれまでのソ連型計画経済が、いかにひどかったかを物語っている。軍事経済とはいえ、それほどの非効率非生産性を持っていては立ちゆかなくなったのは明か。たださえコストのかかる軍事力の維持を、さらにコストのかかる方法でやっていては破綻するのは当たり前。そして資本主義経済になったとたん起こった軍にさえ及んだエネルギー不足は、それまでいかに無理していたかを明かにした。たださえエネルギー供給が難しい極東地域の基地に、大軍を配備して維持する事は、どれだけのコストを必要としたか。その費えを維持し続けることが、地域経済にどれほどの負担になるか。ソ連崩壊後急速に減少する極東・シベリア地域の人口がそれを物語る。つまり、軍事的な必要がなければ、本来生活すべき人口はもっと少なかったはずなのだ。

 このような無理を続けていれば、やがては自滅するのは時間の問題。ソ連は米国との軍事技術競争に負けたのではなく、ソ連型社会主義・全体主義体制の無理に耐えられなくなり、自滅して崩壊したのだ。それが冷戦終結の真の理由である。

4.では戦略空軍は必要か?

 実際問題として、遠く離れたところに至短時間で戦力を投入できる、あるいはそういうところを攻撃できる軍事力は魅力的であり、持っていれば軍事的オプションが増えるという意味で貴重である。しかしそれが全てではない。それだけで全ての脅威に対処でき、戦争になっても勝てるというものではない。戦後米国は上記のような幻想を維持し、或いは増幅して戦略戦力の構築と維持に血道を上げた。しかし結果として、それは冷戦の勝利に役だったわけではなく、米国の敵を地球上から一掃するのに役だったわけでもなかった。つまり核兵器や核ミサイル、新型ステルス爆撃機に投入されたコストは、ほとんど無駄になったと言ってもよい。それらは見た目は派手で、米国の軍事的優位を強調する材料にはなった。米国や世界中の有能な人材を軍に集める事にも役だっただろう。しかし適切なコストで平和を維持するという事には無力だったどころか、無駄なコストをかけさせたと言って過言ではない。

 結局、戦略空軍は負けた事がない。その意味では無敵である。しかし元々無意味な土俵で戦う努力をしていただけなら、それは儚い幻想に過ぎない。無抵抗な一般市民を空襲や原爆で殺戮するのが勝利なら、なるほど負けるはずはないのである。

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。