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田母神論文余波 [私的戦争論]

新聞広告を見ると、あちこちで田母神前空幕長が大人気。まるで日本の歪んだ歴史認識・歴史教育を正す救世主のようだ。
しかしこれら「売らんかな」の宣伝に惑わされてはならない。

第一に、彼のような主張はこれが初めてではなく、多くの人が何度もしてきていること。そして彼がその職責をわきまえず、そのような主張を公にしたことで、いろいろな方面に迷惑をかけたのは事実であること、この二点は忘れられてはならない。

今回の場合問題なのは侵略戦争かどうかではない。
そもそも「侵略戦争」の定義はそれ自体で本が書けるほどのテーマである。例えばかのマッカーサーが議会証言の中で日本の戦争に防衛的性質があったと述べたことが最近明らかになった。
戦争は間違いないにしても、それがどういう性質のものかは戦争ごとに違ってくる。少なくとも古代はともかく、近代において戦争をしかける側がそれが侵略戦争であることを公言して行われたことはまずない。ドイツの対ソ戦しかり、朝鮮戦争しかりである。
したがって論文中で侵略云々が言われているにしても、それがどういう定義で使われているかまず吟味されなければならない。たぶん「先の戦争は日本の侵略と言われているが」という調子なのだろうが、その場合、侵略の定義は相手方に委ねてしまっていることになる。しかしそれでは検討に足る論文にはならない。

したがって防衛省は、空幕長を処分するにあたり、その論文の内容について、侵略の定義から始めて吟味しなければならず、そのためには彼を厳しく査問して、論文に込められた意義、それを公にした意味まで問いたださないといけなかったはず。そうすれば論文の問題点も空幕長としての行動としての是非も明らかになった。しかしそれはされず、せっかくの国会の場でもされなかった。故に今、彼は野に下って言いたい放題で、誰もそれについて問いただすことはできない。それこそ言論統制になるから。しかし彼がまだ自衛官のうちならそれができた。

拙速に事を処置した防衛省幹部の責任は重い。彼の主張の当否よりも、それ自体が独り歩きして、世に広まるのを誰も止められなくなったのだから。
すでに批判されているように、何を主張するのも自由としても、それをする時の社会的立場というものは考慮されなければならないのは、偉くなればなるほど当然のこと。まさか空幕長になれば何でも言えると思っていたわけではあるまいが、この場合、逆に空幕長だからこそ世間に注目されると考えた可能性がある。しかしそれはまさに「人の迷惑顧みず」で責任ある立場の人のすることではない。

ただ、一方、それがゆえに三自衛隊の長の一人という、自衛隊ではほとんど至高の存在である人が、査問も審査も受けずに更迭されるというのは妥当なのだろうか。いかに組織内部の処置とは言え、国家公務員たる自衛官に更迭という処分をするのには一定の規則とそれにもとづく手続きがある。今回の場合、政府・自民党の足を引っ張る恐れ、とりわけ近く実施されると予測されていた国政選挙に対する悪影響を恐れて、野党の追及を受ける前に素早く事を処置したのは明らかである。

しかし甘かった。確実に処置しようとするなら確実に口を封じなければならないが、法治国家においてそんなことはできない。言論の自由が保証されているということ以前に「死人に口なし」を決め込むようなどこかのテロ国家とは違うのである。
それで田母神氏は今も主張し続け、彼が世間の耳目を集めればそれだけ政府・自民党の株は下がるのである。次の選挙ではどこかから担ぎ出され、立候補するかもしれない。そうすればそこでもさまざまな批判を繰り返し、マスコミはそれを取り上げ、その分自民党の票は減るだろう。それでその選挙区で彼が当選し、自民候補が落ちたらそれこそ自民党にとって悪夢である。

政府・自民党ができる今からでも間に合うことは、ちゃんとした学者に田母神論文を批判させ、彼の主張の問題点を明らかにすることにより、これ以上彼がマスコミに持ち上げられることを阻止することだが、さて今の自民の先生方に、そのような論陣を張らせるだけの見識と人脈をお持ちの方がいるだろうか。ないとすれば、実はそれこそが問題なのである。


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